Trick Bag Tribe Vol8.
連続メンバー紹介も今回が最後で小生「永井ホトケ隆」。厚顔無知な私もさすがに自分のことは自分で書けないので、旧知の仲でありますプロの編集者(Editor)川田恒信氏に原稿の執筆を依頼しました。川田氏は音楽雑誌関係の編集だけでなく、少し前まではNY在住のジャズ・ピアニスト菊地雅章氏のマネ−ジャ−もしておられ、TRICK
BAGの様々なことにアドバイスをしていただき、助けてもらっています。有象無象の多い、またサギ、ペテンまがいがはびこるこの業界で信用できる数少ない人物であります。通称ピヨピヨ川田。では、お楽しみください。
♪永井ホトケ隆。1950年10月24日、三重県松阪市生まれ。伊勢市にある現在の彼の実家の目と鼻の先には、なんとあの山岸潤史の実家もある。余談ついでに言えば、そこから伊勢湾をはさんだ対岸の刈谷市には、あの近藤房之助の実家もある。ホトケ、山岸、房之助の3人が同じころ、同じエリアで生まれ、たとえば小学校に通う姿なんか想像できる? ま、それはいいとして問題は“ホトケ”というあだ名だ。ヴィジュアル系と呼ばれるバンドの連中も何かしらのニックネームを持っているが、“マーク”とか“キース”とか、音楽をやめたあとで考えれば赤面するようなのもある。だが、“ホトケ”はちょっとない。ブルーズを歌っていて、『仏』だもん。今を去ること27年前、永井、塩次伸二(G)、山岸潤史(G)、小堀正(B)、松本照夫(Ds)
の5人によって京都で結成されたウエスト・ロード・ブルーズ・バンド、その小堀の実家は京都でも知られた仏具店であり、そのことから“ホトケ”になったという説がひとつ。2番目は、なぜか当時彼はステージで放送禁止の四文字言葉をよく連発していた。これをズバリ、漢字で書けば『女陰』。“じょいん”“にょいん”、もっと古い日本語で“ほと”と読むそうな。で、“ほと”の毛で、つまりは『ほとけ』(英語で言えばpubic
hairっつーやつですが)となったという説。あまり大きな声では言いたくない話だが、『ほと』という古語をもってきたあたりに教養がちらほら(と、いちおうのフォローを)。
これは嘘のようなほんとの話だが、ある年の正月のこと。なぜかホトケの実家に遊びに来ていた塩次、服田の3人はテレビをボーッと観ていた。そこにいきなりブラウン管に姿を現したのが……Mr.ブルーズ極道ことバディ・ガイとジュニア・ウェルズ、そしてキング・オブ・シカゴブルーズ、マディ・ウォーターズ。たったこれだけ……NHKの海外報道番組『シカゴ・ブルーズ』、これでキマリだった。日本のブルーズはここからスタートしたと言ってもいい。そして、72年9月、ブルーズのレコードなどまだ日本盤がほとんどなかったこの時代、B.B.キングの大阪公演のオープニング・アクトを務めたのが彼らだった。アンコールでB.B.からセッションを要望されたのがきっかけとなり、彼らは泥沼のようなブルーズ街道に入っていくことになる。そして、ウエスト、憂歌団、上田正樹&サウス・トゥ・サウスの3バンドが中心がになり、関西ブルーズ・ムーブメントなどと呼ばれる動きが盛んになったのも73〜75年のころだ。先日、ホトケに聞いたところでは当時、彼らをはじめ関西を中心に活動していたバンドが大挙出演したイベント『8.8ロック・デイ』の音源がいくつか近々再発売になるそうで、若き小島良喜の演奏も聴けるらしい。このころのホトケとにかく怖かった。ステージに下駄をはいて出てきたこともあった。手にはウイスキーのビンをさげていた。それをラッパ飲みしていた。四文字言葉も連発していた。よほど世間が気にいらなかったのか、ケンカもしょっちゅうだった。あるときなど、コンサート途中で会場の憂歌団のファンと一触即発(四人囃子のアルバム・タイトルにもありますが)状態になったとき、ステージの彼が「かかってこんかい!!」と言いながら手にした武器はマイク・スタンドだった。75年4月には、ウエストの1stアルバム『ブルーズ・パワー』を、9月には京都会館でのライヴ盤『ライブ・イン・キョウト』をリリースし、同じ年に行われたワールドロック・フェスティバルではジェフ・ベック、ヨーコ・オノらとも共演している。76年、このライヴ盤が、アメリカ、オーストラリア、カナダで発売になり、当時洋楽ファンには絶大な信頼のあったアメリカ西海岸のDJ、ウルフマン・ジャック(彼の番組は米軍の極東放送=FENで日本でも聴けた)に絶賛され、アメリカで彼の番組にも出演した。メンバーが一時期アメリカに住んだのもこのころで、ルース・ブラウン、エタ・ジェイムス、エスター・フィリップスなど、現在、彼の重要なレパートリーになっているシンガーたちのステージを目前にしたのもこのころだ。そしてウエストは解散。当時の彼らの演奏を実際に聴いたことのある人なら説明不要だが、とにかくうまかった。うまかったし、何よりも熱さがあったし、ただ客をあおるだけでなく、クールダウンさせる部分もしっかり持っていた。さんざん盛り上げておいて、ラストはスロー・ブルーズで締めくくるというようなこともあった。しかし、それは四人囃子にしても同じで、当時の彼らと同じ年齢の今のバンドとは比較にならないほどの演奏力と想像力、つまりは音楽性を備えていた。これはひいき目でもなんでもなく、真実だ。
アメリカから帰国後、ホトケは上京。心機一転、現スウィギング・バッパーズの吾妻光良とブルー・ヘブンを結成する。オリジナル曲やジャンプ・ナンバー、ニューオルリンズ・テイストの曲もまじえたステージはウエストとはひと味違ったヌケた感覚があった。そう言えば、このころのホトケだが、頭はパンチ風アフロ、髭もあったような気がする。身体は相変わらずやせていた。ブルー・ヘブンはブレイク・ダウンとのカップリング・ライヴ・アルバムのほかオリジナル・アルバム『ビッグ・ボス・マン』の2枚を残し、81年に解散。そして、器用と言うべきか、欲張りと言うべきか、雑誌にインタビュー、コラムを書くということもこのころから始めている。現在、書店に並んでいる『ブルーズ・パラダイス』(中央ア−ト出版)ほか、『ドッグデイ・ブルース』『エンドレス・ブギー』(雪渓書房)の3冊をものにした文才の主でもある。正真正銘の書き下ろし。ゴーストライターなどという存在はない。3冊あれば、永井ホトケ隆の何分の1かはわかる。読めばわかる話だが、おそらく永井“ホトケ”隆は人間が好きなのだ。人間観察というか、人をよく見ている。誇張するでもなく過少に見るわけでもなく、そのままに似顔絵を描くような書き方だ。
83年、ウエスト再結成、その3rdアルバム『ジャンクション』(84年)のころからロミー木下、佐山雅弘、松本照夫らと異種格闘技バンド、クレイジー・ブギ・ナイトを結成(86年)、そして、この快感が忘れられず(?)“異種格闘技セッション”=エンドレス・ブギをホームグラウンドである高円寺ジロキチを中心にプロデュースし始める。このセッションは規模を拡大し、参加希望者続出。渋谷クアトロ、大阪アム・ホールで定期的に行うまで広がり、金子マリ、ジョニー吉長、鮎川誠、近藤房之助、ウエスト……総勢50人以上が参加する一大セッション・イベント=エンドレブギ総集編を日比谷野音を行い、締めくくる。名前を聞くだけで、イベンターが二の足を踏みそうな“やっかいな”ミュージシャンを50人以上も、よくもまあまとめたものだが、性分に合っているのか、頼まれると断れないのか、そういう星の下に生まれたのか(「Born
under the bad
sign」である)、ゴタゴタも最後はホトケのころでまとまるというケースが多い。プロデューサーどころかマネージャーまでできそうなくらいだ。
95年、ニューヨークにおけるウエストでのライヴ・レコーディング&ライヴCDリリース、そして『Night
People』『Fool's
Praladise』の2枚のソロ・アルバム・リリースに次いで、ブルー・ヘブン以来のパーマネント・バンドTRICK
BAGを結成するここ最近の動きはすでにご存じのとおりだが、ホトケはかれこれ30年近くもブルーズを歌ってきたことになる。これはちょっとすごいことだ。同じブラック・ミュージックであっても、ジャズ以上にプリミティブな音楽がブルーズであり、ここはミシシッピー河流域じゃないのだ。30年近くも歌いつづけるというのはかなりしんどいことである。言ってみれば、ホトケやその同世代のブルーズにはまってしまったミュージシャンは、日本初の試みをつづけけきたことになる。30年近くもなぜ歌ってこられたのか、本人に聞くと「たぶん、それしかやることがなかったんちゃう?」とこともなげに言うにちがいない。ところで彼の歌にはミュージシャンのファンが多い。正確無比の音程を誇る抜群に歌のうまいヴォーカリストというわけではない(ごめんなさい)。いっしょに仕事をすればギャルがわんさか寄ってくるというわけでもない(たぶん)。その日のギャラでマンションが買えるくらいにおいしい営業仕事を紹介してくれるわけでもない(きっと)……しかし、である。そもそも、歌がうまいとかへたとか言うことほど当てにならないものはない。とくに、『正確無比の音程』とか『7オクターブの声域』とか『時計のように正確なタイム感覚』とか『○○dBの声量』(これはあまり聞かない)
などの言い方で音楽を計る人間がいれば、あまり信用してはならない。そういったものはすべて音譜や数字にできるもの、つまりは、今のコンピュータ技術をもってすれば、ほとんどが機械で再生できるものだ。音楽をすべて音譜や数字で表せるなら、人間が歌ってもコンピュータで作った『声』に歌わせても同じということ。数字への忠実さだけで言えば機械のほうが頼りになる。しかし、そんなものがおもしろいはずがないのは誰でも知っている。ましてやミュージシャン、そのあたりの勘と聞き分ける耳はダンボ状態だ。ということは、ホトケ・ファンのミユージシャンたちが聴いているのは機械では作れない、言ってみれば“悪魔の音”だ。これは主観(しかもかなり自信のある)だが、『ミュージシャンの質は音譜にできないものをどれだけ持っているかで決まる』ということなのだ。個性と言われるような中途半端なものでもなく、我田引水の独りよがりでもない。オタマジャクシと5線の間をすり抜け、言葉の隙間を縫い、宙を進み、生身の魂に突き刺さるものそれこそがブルーズであり、すぐれた音楽なのだ。マディ・ウォーターズ、ビリー・ホリディ、ジェームス・ブラウン、エスター・フィリップス、O.V.ライト……ホトケのアイドルたちは、みごとに“悪魔の音”を持つものばかりだ。類は友を呼ぶとはこのことか。ミュージュシャンたちがホトケの歌に聴いているのは、『楽譜の約束ごとからの解放をそそのかす悪魔の囁き』かもしれない。彼自身、そうした音楽のひそむところを確信犯的に知っているにちがいない。TRICK
BAGは彼のその音楽観をみごとに現している。それにしても、ホトケが悪魔とは、これまたなんという摩訶不思議!!
♪Live
News>以前もお知らせしたようにメンバーのスケジュール調整がうまくいかず「助っ人」を頼んでのライヴが続きますが、並の助っ人ではありません。6/25、26と大西ができないので6/25は超一級のスタジオ・ミュ−ジシャンである{グルーヴ・マスター}岡沢章、また26は山崎まさよしなどを手掛けるアレンジャー(ホトケのアルバム「フールズ・パラダイス」のアレンジャー)でもあり小島とは近藤房之助のバンドで一緒だった中村キタロー。このふたりのヘーシストの登場です。♪Small
Town Talk>アレサ・フランクリンのヒット「Do right
woman,Do
rightman」またジェイムズ・カーが歌いライ・クーダーもカヴァーした「The
dark endof the
street」など数々の名作を作ってきたソング・ライター・コンビ、ダン・ペン(DAN
PENN)とスプーナー・オーダム(SPOONER
OLDHAM)の昨年のイギリスでのliveアルバムが発売されています。タイトルはMoments
from this
theatre,レーベルはbluefive。怪し気な「癒しの音楽」が最近売られていますが、これこそ心休まるアルバムです。
♪TBTの同志であるToyotaさんからメールで森園勝敏に四人囃子時代の「カーニバルがやって来るぞ!」と「レディ・ヴァイオレッタ」のリクエストを貰いました。さて、モリさんはどう出るでしょう・・・。リクエスト、要望(例えば、小島に笑わないでプレイしてくれとか)などください。
☆永井ホトケ隆Vo/森園勝敏G/小島良喜Key/大西真B/鶴谷智生Dr
Love&Peace&Justice/Trick Bag Tribe
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